久しぶりの投稿である。背中と腰の激しい痛みはまる1月以上も続き、だいぶ回復はしたが今もなお、肩甲骨の下あたりが痛む。ロキソニンやモーラステープを張っている。後者は、かぶれるというほどではないが、痒みが出てくるので、毎日は張ることができない。そこで、2種類の鎮痛消炎薬を交互に使っているというわけである。大したことは何もできず、ただただ痛みの治まるのを待つ日々であった。現職中であったら休職?は免れなかっただろう。たとえ復職しても、後任が発令されていて、4月までは某研究所で新聞の切り抜きでもしていたに違いない。
 さて、25日の土曜日に、所属する団体支部の定期総会と懇談会、それに続く懇親会を終えることができた。庶務を担当しているので、議案書等の準備等をした。それは事務的な作業なので苦と言うことはなかったが、懇談会のレポーターだったので、そちらのほうで四苦八苦してしまった。というのも、列席者が、管理部門の中枢におられた先輩方だったからである。テーマは「平常心」。サブテーマを、「暗夜に霜の降るがごとく」として、以前、趣味で続けていたFSBP60の射撃を通してお話しさせていただいた。           
  FSBP60とはフリースモールボアライフルプロン60発競技である。SBとは22口径ロングライフル弾を発射する銃で、私の銃はアンシュッツの1813。フリーであるので、引き金は70グラムにセットしてあった。プロンとは伏せ撃ちのことで、この種目になると、何点かではなく、当たったか外したかというレベルになる。究極の精密射撃と言ってよい。車に例えればF1,戦闘機に例えればF22といったところである。
 引き金を引くとき、「無」なんてことはけっしてない。呼吸を小さくしていって3回目、最後に銃の動きを止めた瞬間、当てるぞという明瞭な意思のもと細い目を見開いて標的をグッと見つめる。すると、照門と照星と標的がくっきりと透明感に満ちた同心円に見えるのである。その時、まさに暗夜に霜の降るがごとく引き金をすっと落とすと、22口径の小豆粒のような小さな弾頭は、命を吹き込まれた分身と化してX点に向かって飛んでいくのである(以前は10点圏の中心に点があった)。実射は日曜日しかできないので、通勤電車のなかはイメージトレーニングの場であった。また、練習の時も、エレーのテネックスを使った。これだけではないが、日常を試合という非日常にしようとしたのだ。すると、試合という非日常を日常化できると考えた。自分では様々工夫したつもりだったが、関東選手権や東日本選手権の成績は万年8位だった。       
 曹洞宗のある和尚は、「平常心」を「ビョウジョウシン」と言い、「これではいけないと取捨選択するのではなく、今のありのままの自分を認めて受け入れ、いまできることをすれば良い。」とおっしゃる。しかし、ありのままの自分を受け入れるということが、凡人にとっては恐ろしく難題なのである。
 平成3年、管理職になってからは日曜日も撃てない日が多くなり、間もなく選手を退いた。これこそが射撃で培われた平常心だといえるものは、ない。あえていえば、リタイヤ後本格的に始めた釣りで、200メートルの深海からヤリイカを釣り上げるときや5キロを超えるタイやヒラメを釣るとき、リールの深度表示をちょくちょく見たり、バレルのではないか、早く吊り上げねばとドキドキしたりすることが割と早い時期になくなったことだろうか。中りの合わせや魚の引きを楽しんでいる。来週あたり乗っ込みのタイか梅雨イサキ釣りに出かけたいものだ。