寝たきりになってからの趣味を持とうと以前書いたことがある。なぜかというと車いす生活に入った母を見て痛切に思ったからだった。今の自分が寝たきりにやや近い。「やや」というのは何とか起き上がったり歩いたりできるから。そんなところへ棟梁からイノシシの肉を取りに来いという電話が入ったのは昨日の夕方のこと。携帯を持ってきてくれた奥が今日はだめとそばで顔をしかめた。明日行くことを約束して電話を切った。
 そして先ほど、ボルタレンの座薬のお世話になりながら、それでも背を丸め走る激痛に顔をしかめ、よたよたと頼りない足を運んで車に乗り込み足2本をもらってきた。幸いにしてカチカチに凍っている。溶けるまでには時間がかかるだろうから助かった。捌くのは明日でいいだろう。明日には今よりも痛みが軽減されていることに期待して風呂場に運び込ませた。
 ベッドに横たわって本を読んでも長い時間、同じ姿勢は苦痛だし、姿勢を替えようと体を捻じったりおしりをあげようとすると激痛に悲鳴を上げてしまう。それでも時間をかけて起き上り苦労してテレビの前に行って撮り貯めていたフォークルのビデオを観た。フォークルと言ってもはしだのりひこが居ない(代わって坂崎幸之助)。が、懐かしい青春の聞きなれた曲に思わず口ずさんでしまう。やがてイムジン河のメロディが流れ歌が始まった。聴いているうちに引き裂かれた民族の悲しみ、悲惨な現実が思いやられ思わず涙が流れてしまった。聴きおえてから短い詞の中に何万字にも勝る人の願いや悲しみを込めた詩人の感性や情熱、人としてどう生きるべきか問い続ける姿勢には改めて心を打たれた。